今回は、明治から大正の初めに施された「松本城の修理」についてご案内します。
明治初期に破却を免れた松本城も、明治中期までには荒廃がすすみます。
江戸時代の間は、松本藩が相応にメンテナンスを施していたと思われますが、維新後は荒れるに任されていたようです。
この画像(いただきものの一部)は既に修理途上のものではありますが、クリックして拡大すると、未修理箇所の荒廃ぶりがお分かりいただけるでしょう。
この状況を見かねた松本中学初代校長:小林有也氏が、明治34年「松本天守閣保存会」を立上げました。
(立上げ理由は諸説あります)
各方面から寄付金を募り、明治36年10月、漸く着工に至ります。
今回、私の手元の資料等から、天守群各部位の修理時期を考察してみました。
まとめると次の図の通りです。
大雑把な順で言えば、
・中央の「大天守」を上層階から下層階に向けて修理
・続いて東側の「辰巳附櫓(たつみつけやぐら)」と「月見櫓」を修理
・最後に北側の「渡櫓(わたりやぐら)」と「乾小天守(いぬいこてんしゅ)」を修理
となります。
ただ、皆さんがご覧になったことのある資料の修理時期とは、若干ズレがあるかもしれません。
なぜこのような結論に至ったのか、順を追って説明いたします。
まず、天守上層の5層目・4層目の工期は「長野県松本中学校・長野県松本深志高等学校九十年史」(昭和44年)に、「松本親睦会雑誌」記事の引用にて説明がなされています。
この記録によれば、
①:いちばん上層階:5層目の完工は、明治36年12月頃
②:上から2番目:4層目の完工は、明治37年7月頃
のようです。
しかしその代金はすぐには払えなかったようで、下層階の工事費も含め、金策には苦心していた様子がうかがわれます。
その①から②まで:上層2階が完工した状態を写した絵はがきが存在します。
記念スタンプの日付が明治39年11月25日なので、それ以前の撮影であることはまず確実です。
上の写真が撮影された後、金策がついたのか下層階の修理が始まります。
いったい、いつ頃工事が再開されたのでしょう?
その貴重な手掛かりが、以前「旧開智学校」で展示されていました。
それがこちらです。
この水彩画には、とてもありがたいことに写生をした「日付」が記載されています。
それは「明治37年10月22日」
この絵を描いた高等小学校4年2組の服部元文さん、本当にありがとうございます!
(明治37年当時の高等小学校4年生は今の中学2年生)
これによって、明治37年10月には、3層目以下の工事に着工していたことがわかります。
服部さんが写生していた場所が特定できそうな古写真もあります。(写生された時期より少し後と思われます)
服部さんは、上の写真の「赤マル」の辺りに腰かけて描いたと考えられます。
石垣や木の位置・形状がピッタリであることが、お判りいただけるでしょう。
この古写真は、次の絵はがきの中央部分であります。
因みに以前、国宝指定にご尽力された旧開智学校学芸員の遠藤正教先生に(図々しくも)お願いをし、服部さんの水彩画以外に「修理中の松本城」を描いたものがないか調べていただいたことがあります。
しかし残念ながら、そのような絵画は残っていなかったそうです。
遠藤先生には、ここで改めて御礼を申し上げるしだいです。
さて、その後、数年をかけて大天守の修理はより下層へと進んでいきます。
さて、やがて中央「大天守」部分が完工するのですが、それはいつ頃だったのでしょう?
次の絵はがきは、明治41年11月3日、陸軍「歩兵第五十連隊」の松本入営を記念したものです。
クリックして拡大すると、「大天守」部分が完工していることがお判りいただけると思います。
この絵はがきは、松本の電気会社:松本電燈株式会社の開業10周年を記念したものです。
同じく「大天守」部分は完工しています。
通信面に、明治41年11月9日付のスタンプがあります。
続いては、明治41年10月に印刷・発行された「松本平名勝写真帖」からの写真です。
以上から、「大天守」部分の修理は、遅くとも明治41年10月には完工していたことが判ります。
続いては、「辰巳附櫓」と「月見櫓」です。
修理中の様子を写した絵はがきがこちらです。
「辰巳附櫓」と「月見櫓」の完工時期も定かではないのですが、次の明治44年10月21日付消印のある絵はがきでは、完工した状態が写されています。
こちらは、大正2年2月に完工したことが、記録に残されています。
現在とは、ちょっと意匠が異なっていますね。
ともあれ、松本城明治の修理は、足かけ10年の大事業となりました。
小林有也校長はこれを見届け、大正3年にこの世を去られました。
さて、そろそろ「オイオイ、これが日露戦争と、いったいどんな関係があるんだい?」という声が聞こえてきそうです。
それが大いにあるのです。
昭和16年12月(!)「国宝松本城」という写真集が刊行されました。
冒頭に、昭和11年4月に国宝指定された松本城の調査記録をまとめた、松本市による「公式写真集」であることが記されています。
このような素晴らしい写真が、沢山掲載されています。
この写真集が貴重かつ魅力的なものであることは、何ら否定するものではありません。
ただ、ここまでこの記事にお付き合いいただいてきた皆さんは、次の写真をどう思われますか?
(クリックして拡大してみてください)
そうです。
明治の修理の着工前としか思えないこの写真の撮影時期が、明治40年頃であるはずはないのです。
本丸が松本中学の運動場となる前、おそらく明治30年前後の撮影ではないかと私は考えます。
つまり、前の写真と同時期の撮影ではないかと。
誤植でしょうか? あるいはケアレスミス?
そうではありません。
おそらく「確信をもって」事実と異なった記述がなされたのです。
それは、この写真集にある「総説」の一部を読めばわかります。
ナントこの文章では、松本城の修理が「日露戦争終結後」、明治40年代になって着工されたことにされてしまっているのです。
松本城大天守の4層目・3層目の工事がなされていたであろう明治37年は、2月のロシアとの開戦から黄海海戦や旅順総攻撃の真っただ中。
翌38年は奉天会戦やバルチック艦隊との日本海海戦を経て、やがて講和には向かうものの、重大な戦時下であったことに変わりはありません。
おそらく昭和16年当時、特高警察の検閲にでもあったのか、あるいは予め市の担当者が時代の圧力に何らかの忖度をしたのか...、残念ながら歴史が歪められてしまったと思われるのです。
しかし明治時代は、ある意味ではまだ「おおらか」でした。
明治40年1月、松本町(市制施行前)は「歩兵第五十連隊」の誘致に成功しています。
日露戦争中に松本城の工事を進めていたにも関わらず、です。
当時の軍部は、そのようなことなど、さほど気にしていなかったのではないでしょうか。
さきほどご紹介したこの絵はがきをもう一度ご覧ください。
スタンプには「歩兵第五十連隊 凱旋歓迎 入城記念 41‐11‐3 松本」とあります。
初めて松本を訪れる五十連隊を歓迎するため、「大天守」部分の完工を入営に間に合わせた可能性すらあるのではないか、と私は思っています。
いずれにせよ戦時下とはいえ、松本市の「公式資料」によって松本城の歴史の1ページが「修正」されたであろうことは、残念でなりません。
おそらくこのためもあって、明治の松本城修理年代の記述が資料毎にまちまちになっている現実があり、あらためて公式に「再修正」がなされることに期待します。
また私たちアマチュアのファンも、歴史を正しく残していくお手伝いをしなければ!と強く思うしだいです。