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松本城の若宮八幡社(2)

前回の記事「松本城の若宮八幡社(1)」の続きです。


ここで、簡単に松本城の若宮八幡社の歴史を整理しておきます。
(1)1504~1523の間:島立貞知が父貞永(深志城の築城者)を祭り、城の鎮守とする
(2)天正年間(1573~1593頃):小笠原貞慶 社殿(A)を造営、稲荷を合祀
(3)寛文10年(1670):水野忠直 従前の社殿(A)を筑摩へ移す
(4)正徳年間(1711~1716):水野忠周が神田明神の分霊を勧請
(5)宝暦年間(1751~1764):藩主:戸田光雄・光徳・光和) 現存の社殿(B)造営
(6)文政8年(1825):神道宗家吉田家より若宮八幡の社号を許される
(7)大正3年(1914):現存の社殿(B)、五社境内に移築

まず、上記(2)(3)の「社殿(A)」ですが、ナント松本市筑摩に現存しています!

それがこちら!(詳細は松本市ホームページ参照)

しかも、国の「重要文化財」に指定されているのです!

指定書には建築様式について、「一間社流造」(いっけんしゃながれづくり)と記されています。
「一間」は尺貫法の単位で1.818メートル。社殿の柱間がひとつであることが「一間社」の特徴です。
また、「流造」は、神社建築の一様式です。

前回ご紹介した明治時代の写真には、歴史(5)(7)に記した「社殿(B)」が写っています

現在の若宮八幡社本殿を、後方から撮影させていただいた写真がこちらです。

建立年代は異なりますが、「社殿(A)」と「社殿(B)」の建築様式はよく似ていますね。
前回も記しましたが、歴史(7)の通り「社殿(B)」も松本神社(五社)境内に現存しています

ところで、前回の記事でご案内した「本殿が二社並んでいたこと」は、水野藩主の時代の絵図でも示されています。

松本城天守を望んで、「社殿(A)」「社殿(B)」が並ぶ様子は、どのようなものだったのでしょうか。

「一間社流造」の社殿が並んでいる神社は、当地にて複数の例を見ることができます

まずは「御柱祭」が行われることで知られる、松本市里山辺の「千鹿頭神社」です

松本市三才山の御射神社(みさじんじゃ)秋宮にも、「一間社流造」の社殿が並んでいます


案内板によると、建御名方命をお祭りする手前から2番目の社殿は、「社殿(B)」と近い時代の建立のようです

 

さて、若宮八幡社がここにあった時代、一体どのような風景だったのでしょうか?
皆さんもご一緒に想像してみてください。

それにしても...。手前のケヤキはその様子を知っているんですよね。
あらためて、樹の生命力って偉大です!

さて、2回にわたって「松本城の若宮八幡社」をご案内いたしました。
かつて松本城二の丸に神社が存在したこと。
社殿のうち二社が移築され、現存していること。
その二社は今日もそれぞれの場所で大切にお祭りされていますが、松本城天守と云い、開智学校と云い、裁判所と云い、司祭館と云い、「歴史ある建物を移築してでも残そう」という松本の伝統のルーツを感じずにはいられません

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