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明治27年6月21日 松本で「天気予報」始まる

今回のお話は、松本の天気予報の「はじまり」についてです。
唐突ですが、本日は「松本の天気予報 125周年記念日」です!!
明治時代、人々はどのようにして天気予報を知ることができたのでしょうか?

令和1年5月1日付「縄手から千歳橋方面」でご紹介したこの写真。

今回ご注目いただきたいのは、この長い「旗竿」です

この「旗竿」について、松本市が昭和8年に発行した「松本市史(下巻)」には次のような記述があります。
(松本測候所は)「三十二年七月より地方天気予報を発し、翌年より正式信号標を縄手通に建設し、一般公衆の便宜を図れり」

「旗竿」の正体は、明治33年(1900年)に建設された、天気予報用「正式信号標」でした。

テレビもラジオもなかった時代、天気予報は高く掲げられた「旗」によって広報されていたのです。
そしてこの「旗による天気予報」は、ナント現代の法令でもまだ生かされています。
「予報警報標識規則」がそれで、「気象業務法施行規則」に基づき定められています。
リンクを開いていただくと、文章の下の方に、旗の形、色の種類ごとに、天気の意味が記されています。

「天気」の旗の意味のみ、簡略にまとめた図をネットから拝借しました。
(リンク先も、ご参照ください)

先ほどの、千歳橋付近の旗竿写真のケースに当てはめてみましょう。
下に掲げられた四角い旗は明らかに「白」ですから「晴れの予報」を示しています。
上の三角の旗の色はモノクロ写真なので正確なことは分かりません。ただ、撮影時点の風向きは南風のようです。
しばらく南風が続く予報だとすると「三角の赤色の旗」が掲げられていた筈です。
つまり、この時の予報は「南の風、晴」だったのではないでしょうか。

因みに、お隣の山梨県、甲府駅近くの甲府城跡にもこの「正式信号標」があったようです。

現代の様子です。

さて、「正式信号標」というからには、「正式ではない信号標」もあった筈です

明治27年(1894年)7月20日発行の「松本親睦会雑誌」に、次のような記事を見つけました。
(「松本親睦会雑誌」についても、またいずれ!)
「〇天気予報 松本地方の天気予報は六月二十一日より松本町、千歳橋々畔、本郷村浅間、島内村新橋、神林村藤牧氏宅前等に設置せられ旗号によりて晴曇を鑑別する事にて同取り扱主任は徳永郡吏なりと云ふ」

つまり、明治27年6月21日に千歳橋の畔で、旗による天気予報が始まったというのです。
本日から、ちょうど125年前です!
その形跡がどこかに見つからないか...。ありました!
それは、この写真の中央上部です。(クリックで拡大できます)
この写真は明治26年春から29年春までの間の撮影であることがわかっています。
(この写真だけで、今後少なくとも10本以上は記事が書けそうですが...)

これです!(コントラスト変えています)

このポールはおそらく旗竿ですが、旗が掲げられていないので断定まではできません。
しかし、設置されている場所が後の「正式信号標」とほぼ同じでもあり、「仮の信号標」として用いられた可能性が高いと考えます。
このポールは天気予報のためだけに立てられたのか、他の用途もあったのか、また立てられたのはいつなのか。
今後とも調査を続けてまいります。

「松本親睦会雑誌」の記事には、「取り扱主任は徳永郡吏なり」とあります。
松本市は市制施行まで「東筑摩郡松本町」でした。
当時その郡役所が旗竿の西方向、六九町にありました。
そこで働く徳永さんというお役人が「天気予報」の運営をしていたのですね。

いま一度、「松本市史(下巻)」の記述もご覧ください。
明治25年から測候所が開設される明治30年までは、郡役所が気象観測をしていたと記されています。

この「旗による天気予報」は、新聞等他メディアの普及により、明治末期頃から姿を消していきました。

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