松本城の南および西外堀の復元事業が、関係者のみなさまのご尽力によりすすめられています。
今回は「南外堀の埋め立て前の様子」をご紹介します。
南外堀の埋立・宅地化が開始されたのは大正8年(1919年)ごろと云われています。
(此処にはそれ以降100年に及ぶ大切な「生活の歴史」もある訳ですから、堀の復元にあたり移転された、また移転を予定されている方々には心から頭が下がる思いです)
南外堀の埋め立て前は、いったいどのような様子だったのでしょう?
その全体像を比較的克明に残しているのが「写真(1)」です。明治40年頃から大正初期にかけて発行された絵はがきで、おそらく明治40年前後の撮影と思われます。
(以下、いずれの写真もクリックで拡大できます)
手彩色されていることもあって解像度はやや低めですが、水を湛えた堀の様子がよくお判りいただけると思います。続く写真は最近の様子です。
堀の向こう側に見える建物群は、旧制松本中学の校舎です。
左側に大木(ケヤキでしょうか)が写っていますが、その土台は二の丸と堀の間にそびえていた土塁の名残りです。
この大木は、明治時代に天守6階から南を撮影した写真にも写っていますが、寄宿舎建設の際に伐採されてしまったようです。
明治初期以前は、二の丸全体をこの土台くらいの高さの土塁が廻っていました。
(以前ご紹介した)現在の「松本城南口周辺」にあった「南隅櫓」の写真(明治18年頃の撮影)をよく見ると、松本中学の正門と橋を造るために土塁が削られ、その断面が台形になっている様子がわかります。
続いて「写真(2)」は、松本城天守のほぼ真南から撮られたものです。建物の様子から、撮影時期は明治40年頃です。これも手彩色を施されているため、解像度は低めです。
「写真(3)」は、現在でいえば、令和3年3月に閉館となった旧「松本市立博物館」を堀越しに望む場所から撮影されたものです。幕末まで、この場所には「古山地御殿」がありました。
南外堀のうち、此処は埋め立てられず、現在まで水を湛え続けています。
中央の建物は、明治32年に再築された松本中学の本校舎。
その上にコラージュされているのは松本出身の軍人福島安正。明治39年に陸軍中将、大正3年に陸軍大将にまで登りつめた人物です。勲章が判別できればより正確な時代判定ができるでしょう。松本藩兵として戊辰戦争にも出兵しています。
コラージュ部分を除く風景写真は、同じものが明治39年発行の絵はがきにも使用されていることから、撮影は明治30年代と考えられます。
この写真にも、松の大木の下に土塁跡が見られます。
写真(4)は、写真(3)の場所より、やや右(東)の位置から撮影されたもので、手前の2階建ての建物は講堂です。
この場所にはかつて「南東隅櫓」がありました。
最後に、これらの写真の撮影場所をマップ上で確認してみましょう。
一方、明治・大正期、古写真が写す松本城二の丸内はどんな様子だったのでしょうか。
古写真の撮影時期よりも若干後の年代になりますが、大正8年に発行された松本中学の「創立35周年記念誌」に、校舎の配置図が添付されています。
南外堀が再びどのような姿で水を湛えるようになるのか、一市民としてしっかり見守っていきたいと思います。