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大正5年12月10日「義民嘉助」松本城天守を睨み、傾ける!!

私は、明治以前に松本城天守が「大きく傾いていた」ことはなかったと確信しています。
(過去記事「傾いた松本城天守」写真について(1)「傾いた松本城天守」写真について(2)参照)
しかし一方、「傾いていた」という風説こそが、貞享騒動「多田加助」の偉大さを示しているのです。
何しろ、(少なくとも大きくは)傾いていなかったものを「傾いていた」って、皆に信じ込ませてしまったのですから!
今回はそのことを少し詳しく記します。

明治36年着工の「明治の大修理」前に撮影された写真のうち、天守が大きく傾いて写っているものは、明治22年~24年の間に撮影され、レンズの収差の影響を受けたと思われるこの1枚のみです。

傾いているように見える方向は(「西」ではなく)「南側」です。

また、明治時代の松本城に関する書物をいろいろと調べておりますが、「荒廃」とか「歪み」といった記述はあっても、「倒壊寸前」レベルの傾きを懸念するような記述は見つかっていません。
ウォルター・ウェストンも「古い天守閣は荒廃しながらもなお威容を保っていて」と表現し、最上階で景観を楽しんでいます。大きく傾いていたら登らないでしょう。
(過去記事「明治24年8月2日 ウェストン 松本城天守登城!」参照)
明治時代に「松本城天守が大きく傾いていた」という明確な論拠は、おそらく「無い」のです。

しかし大正時代になって、人々は「大きく傾いていたに違いない」と信じるようになります
そのきっかけとなったのが、以前もご紹介した、この新聞小説です。
(過去記事「大正5年9月26日「義民嘉助」東京朝日新聞にて連載開始!」参照)
※以下、小説の登場人物は「嘉助」、それ以外は「加助」とします。

大正5年(1916年)9月26日、東京朝日新聞紙上で連載が始まった「義民嘉助」は第76回:12月10日に大きなヤマ場を迎えます
「貞享騒動」の首謀者として捕えられた嘉助が、磔にされ、最期を迎える場面です。(クリックで拡大できます)


私は「嘉助が睨んだことによって天守が傾いた」と具体的に表現されたのは、歴史上この文章が初めてだと考えています

安曇野市の「貞享義民記念館」展示資料や、各種書籍・資料を拝見する限り、この小説より前に「加助が睨んで天守が傾いた」といった記述は見当たりません。

上述の通り、半井桃水による見事な描写によって「加助伝説」は一気に「全国区」となった訳ですが、「貞享騒動」の実像からかけ離れた脚色まで、史実として認識されてしまった嫌いもあります。

私は以前、信濃毎日新聞の主筆を明治31年から約2年間務めた「山路愛山」が、桃水の「義民嘉助」を論評した自筆原稿を、古書店で入手しております。


これは最晩年の大正6年に執筆されたもので、愛山が当時「信濃日々新聞」の主筆であったことから、おそらく同紙に掲載されたものと思われます。

以下は原稿全体の5分の1程度を転記したものですが、愛山は「義民嘉助」発表後間もない時期に、桃水の小説が史実とは異なっていることを指摘しています。

「朝日新聞の桃水と云う人『義民嘉助』を作り、去年の秋より其新聞に掲載したり。嘉助の伝記などは信州の文壇に於いて取扱うべきが当然にて、それを信州の新聞紙に掲載すれば地方新聞の善き読物なるべきを、東京の桃水氏に鼻毛を抜かれたること、信州の文士としては気の利かぬ間抜の沙汰なりと、さる人憤慨したり。因て昨日、それを読み返し見たるに、桃水氏の文章は流石に手に入りたるものにて俗人を喜ばすに足るべけれども、中萱嘉助の伝記としては〇〇〇其端緒を発したるだけにて研究の余地は猶ほ十分十二分にあり。信州の文士にて、更に第二の『義民嘉助』を作らんと思はば、桃水氏のよりも真実の嘉助に近き人物を画き来ること甚だ容易なるべしと思わる。尤も桃水氏も嘉助伝に関し、材料を集むる為に松本界隈に来り、相応に苦心を重ねたる様子なれども、それ程の用意にて集め得たる材料も、余り善く消化せられ〇〇ざるが如し。たとえば・・・」(スミマセン。〇は私が判読できない文字です。)

愛山が記したように、半井桃水は「義民嘉助」を著述するにあたって、松本および安曇野に取材に訪れたようです。
おそらく松本城へも来訪し、当時敷地内にあった松本中学校にも資料を求めたことでしょう。
例の「傾いた松本城天守の写真」は、当時松本中学校が所蔵・管理していた筈なので、桃水がこれを見た可能性は極めて高いと思います。

また、松本中学校の初代校長で、松本城明治の大修理の中心となった「小林有也」が、この小説の少し前の大正3年(1914年)に逝去していたことも、「松本城の傾き」に影響していると考えます。
小林校長は後に東京理科大となる東京物理学講習所の創設者のひとりで、当地に赴任後、およそ30年の長きにわたって松本中学校の発展に貢献した人物です。
小林校長が偉大であったことは論を待ちませんが、その人物像が教え子や地域の人々によって伝説化・神格化されていく過程で、松本中学校保有の「傾いた天守写真」の存在が、「小林校長が修理する前の松本城はこんなに酷い状態だった」と、その偉業の認知度をいっそう高める役割を果たしたように思います。

それから、昭和4年の映画「信州義民 中萱加助」の影響も考えられます

フィルムが発見されていないので現時点では想像に過ぎませんが、加助の磔の場面の中で「傾いた天守の写真」が用いられた可能性もあります。当地では多数の人々が映画館に押し寄せたようですから、例の写真が用いられていたとしたら、「傾いた天守」の姿は大衆の目に印象深く焼き付いたことでしょう。
この映画が上映された頃は、明治の大修理の開始から既に20年以上が経過しています。
大正時代に周辺の宅地化が進む前まで、近くで松本城を眺めた人は限られていた筈で、その頃に大修理前の天守の実際の姿を覚えている人は、もはや殆どいなかったと思われます。

こうした流れで昭和8年、松本市役所発行の歴史書「松本市史(下巻)」でも、「松本城天守の傾き」が言及がなされるに至ります

「第三章 史跡名所」に「天守閣保存会」の項があり、「大天守は西南に傾き頽廃(たいはい)甚だしきを加ふ」と記されています。
ここに「かつて天守が西南に傾いていたこと」が当時の松本市「公式見解」となってしまったのです
なぜ「南西」なのでしょう。
私は、松本市史の筆者が、「義民嘉助」で「西に傾いた」とされた一方、「傾いた天守写真」では「南側」に傾いていることから、この2つの事象を両立させて記述したのだと考えます

また、「編外附録」の「第一章 伝説」にも「天守閣傾く(呪咀伝説)」の項が設けられています。

「天守閣は西に傾き」のくだりは、完全に桃水の小説の引用でしょう。

因みに、実際「西に傾いた」写真があったとしたら、こんな感じです。
(iPadで普通に撮影しただけですが、レンズの「収差」でこうなります)

以前も書きましたが、私の結論!
松本城天守は軟弱地盤に在りながら、16世紀末から「明治の大修理」まで約300年間、直立し続けた優れた高層建築です!!

大正5年12月10日から本日で103年が経ちました。
松本城は、そろそろ「加助の呪咀」から解き放たれても、赦されるのではないでしょうか!

私もこの記事を記すにあたって、貞享義民社に参拝し、お願いして参りました...。

なお本稿では詳述できませんが、「加助伝説」の普及には、「自由民権運動」の高まりなど、社会的な動向や関心が大きく影響しているという側面も忘れてはなりません
「古写真」のお話に絡めて、いつかまとめてみたいところです。

「中萱加助」とその周囲の人々の実像が、「郷土の誇り」としていっそう明らかになることを願っています。

最後に、ご参考資料を少し載せておきます。(過去記事と重複するものもあります)
皆さんは、天守が傾いていたように見えますか???

「風俗画報」第16号より
明治23年(1890年)5月 刊行

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)より
明治29年(1896年) 刊行

「松本繁盛記」より
明治31年(1898年)12月 刊行

「信濃名勝詞林」より
明治34年(1901年)1月 刊行

松本中学校運動会を写した絵葉書
明治32年(1899年)~36年(1903年)の撮影

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